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はっぱ2008/06/08 日 12:54
考察ってなに?
考察とは、比べることから問題を見出し、「何が」」「どのように」という問題の根拠を予想し、確かめるために具体的な活動(実験・観察・操作など)を行い、その結果と予想を比較検討することから得られる自分なりの意見を言う。
考察する力を個々の子どもに身につけさせることが、いわゆる学校における「考える力を育てる学習」である。(夏休み研修メモ)

では、具体的に自分なりに解釈し、上記の言葉を分析すると・・・
【問題を見出す】目の前の物を比べたり、もしくは目の前にある対象と自分の持っている概念と比べたりすることから気がつく違いや類似点が「なぜそれが生じたか。」「どのように生じたか。」「何が原因なのか。」と考え、それについて自分なりの予想し、その予想が本当にあっているか検証しようとする気持ちが高まるところから問題が生じる。
【確かめるための具体的な活動】まず自分の持っている既成概念や常識と照らし合わせあってるかどうか検討をつける。次に今まで学習してきた事実と照らし合わせ、その延長線上に今の事実があるかないか見つける。さらに、さまざまな方法で調べ、なるべく確からしい事実と照合し、自分の持っている知識とすり合わせて(置き換えて)考える。(自分の言葉で調べた事実を言い換えれたらOK)
 その上に予想された事実を具体的な操作(実験、観察、計算、表現、操作)で再現することで、考えていることが正しいかどうかを判断する。確かめるという活動には、ただ予想されたことをやればいいというのではなく、操作そのものにも自分の持っている既成概念とのすりあわせが行わなければ、操作活動やその過程に価値を見出せない。だからこそ「予想された事実と自己の持っている既成概念との自己内対話」が絶対に必要である。そこから「確かめる」ということがスタートする。
【結果】あくまで結果とは事実である。変えられないものでもあるし、変わってはいけない。この前提なくして考察はなりたたない。もし都合がいいように結果が改ざんされたなら、最初の問題を見出したり、確かめるための具体的な活動を考えたりする意味がなくなってしまうからである。自分の予想と反した結果にも向き合える勇気が必要である。また予想と違っていたら、なぜそうなのかというフィードバックして、目の前にある対象をもう一度見つめなおすことが大切である。つまり、結果とは「目の前にある対象をもう一度見つめなおすこと」である。そして、対象に対して最初に見つめた自分と今の自分の中でどこが違うかをみつけ、それを自分の言葉でまとめ(書いたり話したりといった表現をする)ればいいのである。まとめたものは、ひとつの経験として自分の概念の一部となる。
 そして新しい概念を得た自分自身は、新たな対象との出会いを待っているのである。

雲百景
| 教育 | 09:31 | - | -
言葉は文化だといわれているが・・・
D51
 言葉は文化だといわれます。時代時代に使われている言葉の意味も違ってきます。それは生活様式や環境が違ってくるからです。逆に歴史的に積み重ねられてきた言葉に対する概念は、文化として日本人の根底に培われています。たとえば言霊信仰などです。日本人は、汚い言葉を使うのを嫌う傾向にあります。いわゆる穢れというものです。だから婉曲的にものごとを言ったり、人間関係のなかでも方言でも敬語でもはっきりものを言わないことがよくあります。これはいわゆる日本の文化です。しかし、戦争に負け、欧米のように言葉に対する考え方の違いから言霊信仰を排除し、言葉は道具や武器であるという考え方(これも一種の信仰でもあります)が一般的になり、今の日本人の考え方を根底から変えていきました。これが20世紀から21世紀を生きる日本人の宙ぶらりんな状態(言葉や道徳観)です。
 日本人としての文化や伝統をなんとなく意識できている昭和生まれの私たちが、なんとなく違和感を持つのは当然ですね。しかし、言葉は文化だというからには、時代には逆らえないものがあります。だからゆれているのです。さまざまなことをいわれ、混乱するのも当然です。こういった雑多な考え方をもっているからこそ、なんとなくいまいち国語に一歩踏み入れる気がしなかったというのも、真実です。
| ひとりごと | 00:04 | - | -
雑談~2年生という年代~
先日2年生の若い先生とお話しするチャンスを得た。その時の雑談・・・

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基礎基本の徹底というけど、低学年においては、基礎概念の成立をめざし、五感を生かした操作活動や体験活動を積極的に取り入れる指導を工夫することが必要です。

 簡単に言えば低学年における学習指導で継続的にやらないといけないのは、言語による概念の成立をめざすこと。五感や体験を子どもたちは言葉にすることができないということ。さまざまな体験(学習)を通して、言語として認識することです。そのためには、子どもにそった指導を行わないといけません。考えると言うより、覚えさせたり、実感させたり、訓練して身につけることが大切です。

言語化(記号化)された言葉を使ってこそ、思考に結びつくのです。
そのための橋渡しが2年生ですね。

のどかな丘

生徒指導といえば、個の確立を目指すのが1年生。一年生といえば新しいことにふれ、みて、感じて、意欲をもって活動できればだいたいOKだということです。

2年生は、さらに集団を意識した関係作りが必要になります。子どもたちは、集団というものを意識したことがないでしょう。2年生になり、学校生活に慣れてきたからこそ、個人を超えて、他人(友達)を見つめることができるのです。しかし、どのように友達とつきあってよいかは、しりません。

だから2年生の大切なのは、集団(ともだち)とのつきあい方を学ぶことなのです。1年生のように自分と先生という関係から、友達と自分という関係を作り出し、その身の置き方を学習するのです。それはやっぱり指導しないと身につかないでしょう。

友達と関係をもつということは、どういうことか。
友達といっしょにいるとどう言うところがすてきなのか。
それを教えなければなりません。そこに教師の活動に対する価値付けや環境をつくりだすという操作がひつようになります。

ほっといて友達関係が成立すると言うことはありません

一つずつ教えていかなければなりませんよ。だから、AFPYのような活動や行事、学活、体育、図工、音楽祭などの活動が必要になります。

人間関係作りの根幹に関わるのが2年生です。だから学級経営では集団作りが基本になりますよ。

そのためにさまざまな集団的な活動(班活動、係活動など)を取り入れたり、遊びの中で積極的に関わりを持たせるようなゲームなどを推奨し、その中で友達とどうつきあっていけばよいかを教えることが大切になりますね。
よくどうしたらいいか考えるという人がいますが、考える元がないのですから、この時期は教えることがまず一歩です。活動の意義や価値を子どもに諭すのです。

1年生では、活動に関してよい人をほめるでしょ。
同じように2年生では集団的な活動に関わる部分を積極的にほめます。

子どもが先生に告げ口を多分にするでしょ。

それは、自分と他人を意識しているからで、子どもは認められたい、優越感を得たい、のけ者にされたくないということを本能的に行っているのです。だから、それは成長の証ですね。しかし、それを集団の力にするのも2年生の大きな課題です。集団が自己再生能力を持てるかどうかは、2年生の時期に関わっています。やってきた子どもたちに思いを受け止め、それを自分たちで解決する仕組みや自分たちで折り合いをつける方法をまなばせるのです。けっして平等ということはありえません。それを理解するのも2年生ですね。ときどき親は勘違いしていますけどね。子どもには、それを教えないといけません。ですから、価値付けと順序というものを早めにおしえます。

なかよし

集団学習の最後はどこに行き着くかわかりますか?

それはポジショニングです。

役割
自分のやくわり?

だれもが同じ力を持つことはありません。みんな違う力を持っています。しかし、どの人も存在理由があるのです。その存在理由を見つけて役割分担をきちんとできてる集団は強いのです。
そして、その役割の中で互いに認め合うことが大切ですね。

役割を無視して認め合うことは絶対にありません。ポジショニングの基礎を教えるのも監督である先生ですね。

適材適所、それを意義あるものとして広め、互いにみとめあう環境(教室経営)ができるのが学級担任です。

野球の監督をみてください。

最初から優勝できる監督はいないでしょ。

数ある監督の中で全部の監督が優勝できるはずもありません。Aランク入りしたらOKです。でも、時間がかかるよね。それに人材にもよるし・・・
だから、修行が必要なんです。

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なんか難しいことを言っていて、自分でも相手に伝わってないかなと思うことがある。自分の思いや考えを如何に相手にわかりやすい言葉で使えるかということが、私自身まだまだ修行しないといけないことだなっと反省した。
| 教育 | 15:20 | - | -
学習効果と記憶
 先日、人間関係実践プロジェクトの指導者講習会に参加した。さまざまな単純な体験活動を仕組み、そこに課題を設定する。その課題を解決するために、人とよりよく協力・理解・寛容・補完しながら、活動をすることで、自らの目標をクリアしていく過程をあじわった。
 活動の途中で、いろいろな理論的な話があったのだ。その中で、興味深い話があった。
 人間の忘却曲線が一番大きいのは、聞くだけ見るだけの活動であり、次の日には4分の1しか残っていないといということだった。授業がまさにそれである。
次に操作活動を伴うと3分の1に減る。操作活動を積極的に取り入れようとしているが、それでも3分の1なんだそうだ。
体験活動を伴えば、飛躍的に伸び、2分の1以上になるという結果もあった。
五感を働かせ、自らの体を動かす活動をすることがどんなに大切か、また人間が「動物」という分類に属していることを改めて思い返された。
さらに8割近い記憶を伴っているのが、人にものを教えることなんだそうだ。教師が毎日やっていることが、一番学習効果が高いことになる。
そうやって考えていくと、教師と子どもの間の学習の溝は、実は学習形態にあることになる。(100年以上前からやられている学習形態は、実は教師のプライドを保つため、教師の満足のためであったのか・・・)
 いかに積極的に能動的に学習することが大切なのかが見えてくる。学習効果がもっとも大きい方法は、子どもが習っていなくても、自分からテーマに対して予習(調べ学習)をし、課題を持ち、集団学習の中で体験的に能動的に関わる学習形態が、もっともいいことになる。また、テーマ後との一区切りとして、自らまとめていく活動(復習)がより大きな効果を生む。
 そういった方法がこれからの学校での学習形態に必要になるだろう。ただし、テーマを追求できるようになってからで、小学校高学年くらいにならないと難しいかもしれない。
 低学年では、何もかも初めてなので、体験を伴いながら、学び、復習し、さらに学ぶというサイクルが必要になると思う。復習の中に応用的な力や能動的な力を生むような学習形態が必要になると思う。たとえば、1年生ではひらがなの学習を行うが、学んだ字を使ってならっていない字も使いながら、言葉探しを行ったり、数の合成分解を習いながら、それを使って買い物ができたりすることなどは、応用や能動的な学習につながると思う。それを教師がきちんと評価(ほめて)やり、ほかの子どもに広げることが大切であろう。
 小学校というのは、学習形態を成立させるための要素も同時に教え、学ばせ、体得させるところである。だからこそ、さらなる研修と理解が不可欠と思うのである。
蛍
| 教育 | 10:31 | - | -
問題意識を持つということ
宇宙から
物事には必ず裏や表があります。その裏や表が絡み合ってさまざまなことが起こります。ですから、さまざまな価値観が生み出されるのです。さまざまな価値観からそのときその時に応じた自分なりの価値を意味づけることができるようにするのが、学習ですね。物事は一方方向に流れているのではないと、さまざまな面があってそれを自分が見ているのはただ一方だけだと思えれば、ほかの見方も探してみようと思えるのではないでしょうか。世界にあるあらゆる物事に対する尊敬や畏敬の念をもって接するときにそういう見方を追求しようと思えると考えるのです。
 物事を見るときにあんまり近いとよく見えませんね。また遠すぎると詳しく見えません。ですからよく観るというのは、適当な距離にいることというのではなくって、近くに行ったり、遠くに行ったり、反対向きに見たり、下から見たり、うえからみたりと様々に労を惜しまずそのものに対してみようという意識を持つことだと思います。その中に寛容ということが生まれ、寛容があるから見守ることができ、考えることが出来るのだと思います。いうなれば寛容というのは、ある意味、物事に対する本人の心の姿勢とそのものとの視野と距離に関係していると思うのです。そういう寛容の姿勢がなければ問題意識も生まれません。逆に寛容の姿勢がありさえすれば、身の回りの世界に少なからず自分が関わっていることが考えられるようになるし、どう自分が対処していけばいいのか少しずつ理解していけるものだと思います。ようは考え方ひとつで、自分の視野も将来も関わり方も変わってくるものです。
| ミーム | 10:19 | - | -
学力についてどうとらえるか?
船出
学力についてどのように捉えるかという議論は今でもさかんに行われています。
話し合っても立場が違うときりがないのがこの「学力」問題で、だからこそ個人がど
うとらえているかという設問になるのでしょう。以下に二つあげましたので、ことば
だけじゃなくって概念やイメージでとらえていただけたらと思います。

「学力」は大きく3つ(A、B、C)に分けられるそうです。「学力」を一かたまり
にして海に浮かぶ氷山として考えるとよく分かるそうです。
 一つはA・・・氷山から「目に見える学力」として「知識・理解・技能」=「知っ
ている・分かった・できた」と言われるものです。20世紀の日本の教育はここを一
番重要していました。これは「受験の学力」と言われるものです。
 2つめはB・・・「思考力・判断力・表現する力・コミニケーション能力」といわ
れるもので特に日本人の弱い部分です。ディベートする力もそうです。氷山からは半
分くらい見える学力と言えます。
 3つめはC・・・「関心・意欲・態度」といわれるものです。別の言葉で言いかえ
ると「感動・感性・驚き・やる気・基本的生活習慣・規範意識」といえます。これ
は、従来学校ではあまり重視されなかったものです。しかし、一番大切ですよね。氷
山からは「見えない学力」といえます。
 最近学校では「総合的な学習」というのが授業として行われていますが。これはC
→B→Aの学習といえます。21世紀を生きる子ども達に「生きる力」をつけるため
にこの学びが実施されています。

また、このような定義をしているところもあります。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~totatu/gaku.html
これは、学力がけっきょくなんなのかっていう動物学的なアプローチまで及んでいま
す。
そう考えると、私たちが学校で子供たちの学力を向上するために努力しているのは、
本来人間のもっている知能を高めて、他の動物たちと隔絶した優位にたつことによ
り、将来あらゆる環境にも知能を駆使して適応して豊かに平和に暮らしていくためと
いうことでしょう。そして生物学的な反映は人間として知能というものによってなさ
れると信じられているからでしょうね。
| 教育 | 10:18 | - | -
児童一人ひとりが自然事象に主体的にかかわり、見通しをもって追究する能力や態度を育てるための指導と評価の在り方
海底から
1 はじめに
近年、特に子どもが持つ特質である「好奇心に任せてさまざまな自然事象に積極的に関わる」環境も時間も薄れてきた。しかし、教師は授業という限られた時間で、単に出会いを演出するだけではなく、授業でどう関わらせるかということが必要になってきている。
 さらに、その関わりから問題意識を高め、解決する学びへと児童一人ひとりをいざない、更なる知的好奇心を醸成することが大切になってくる。
 以上のことを解決するために実践してきたことを自己の考えとともに述べていきたい。

2 自然事象への関わり
 自然事象との関わりと言えば、すぐに観察・実験という体験が大切だと言われるが、主体的に関わらなければいくら体験しても児童にとってバーチャルでしかない。目に映るのではなく観る、手に当たるのではなく触れるといった心的な行動が伴わなければ実感は得られないし、感情も思考も揺り動かされない。
 学習指導要領の5年、生物とその環境の中に「魚を育てたり人の発生についての資料を活用したりして,卵の変化の様子を調べ,動物の発生や成長についての考えをもつようにする。」という目標がある。
選択教材ではあるが、特に魚ではメダカを使って学習する。発生や成長まで観察し考えを持つとなれば、生き物の一生に責任を持って関わらなければならない。しかし、住宅事情から自分で魚を飼った経験を持っている児童は少ないと予想された。そこで、今年度私は理科専科をしているので、まずは5月の始めに理科室に大きな水槽を据えてメダカをオス・メス合わせて16匹飼うことにした。小学校の児童は生き物があると次第に目を向けて集まってくる。低学年などガラスに鼻を押し付けてじっと見ている。特に私が受け持っている5・6年生の児童は授業の度にメダカを見る機会も増え、また私が世話をしているのを興味深げに見ていた。6年生は昨年度理科の学習でメダカを育てた経験を語る。5年生はそれを聞き、世話をしてみたいという児童が少しずつ出始めた。でも、あくまで理科室のメダカは「先生が飼っているメダカ」である。たびたび来る児童を介して、メダカの飼育や知識を交換したり、毎日の変化の様子を話し合ったりするようになった。このような日が一週間続いた時、ついに「自分たちも教室でメダカを飼ってみたい。」という願いが生まれた。「せっかくだから先生のメダカをすこし出張させてあげるけど、大切な先生のメダカなんだから一学期の終わりにはちゃんと返してね。」というと、「生まれたメダカは、私たちのものにしてもいいですよね。」と子どもたち。ちゃっかりしている。こうやって5年生の子どもたちのメダカの飼育は始まった。
この5年生の児童とメダカとの関わりからもわかるように、さまざまな自然事象との関わりで何が大切かというと「関わるべき場(環境・・・空間や時間も含む)」と「本人の事象に対する理解(先行経験、知識、好奇心)」、そして「教師(友達・親などの他人)の一言(行動)」である。いきなりメダカを持って行っても一部の動物好きの子しか世話をしないであろう。しかし、その前に興味関心を高めるための場と知識を与え、教師の言葉という刺激を受けて、関わり方がより深いものに変わる。事実、その後の理科室の先生のメダカでの観察や実験では、どの子も宝物のようにメダカを扱うだけでなく、メダカが生きていくためにはどのようにしなければならないかということを考えながら扱うことができていた。

3 指導と評価の一体化した学びへ
 先ほどの関わりからすでに授業を始める前に児童の意識の中に「メダカを飼うためにはどうしたらいいか」「メダカに卵を産ませて増やしたい」「どれがオスとメスか、その違いは?」といった課題意識や目的・目標が生まれてきている。では、それを学びにしていくためにはどうしたらいいだろうか。
 つねづね小学校6年が終わるまでに自らの力で自然に関わり、研究し、自らが納得できる結論が出せるようになってほしいと考えていた。そのための論理的思考や判断、観察力、知識、実験の手法などはある程度教えないとできないし、なによりそのまとめ方もルールに則ってやらないと人には伝わらないことも理解させる必要がある。さらに自然事象と関わり、問題意識を持ち、解決するためには、言語としての記述とそれに伴う検証(評価)が不可欠である。それなしに、理解したということもできない。物事を理解するということは、自らがわかるスケールに要約した言葉に言い直し、それに対する検証(評価)が加わったときに初めて理解したといえるのだと思う。
そのためには、その日その日に出会った事象に対する記述(評価)が大切になる。もちろん記述するものはノート(紙)だ。
理科の学習と自由研究の手法はほとんど同じものである。動機(導入)、目的(課題設定)、方法(実験・観察)、結果(記録)、考察(まとめ・話し合い)といった手順の繰り返しである。児童の思い願いからスタートするといっても記述の方法や調べていく手順に変わりはない。だからこそ、ノートのとり方が重要になり、その時々に必要な記録方法や内容が変わってくる。たとえば実験の結果を記録しないといけないのに感想を書いてはおかしい。事実に基づいて、実験の確からしさと結果の記入方法を自己の知識や方法を学びながら検証し、それを記述するべきである。逆に考察の場面では、ノートに結果だけ書いて、目的を評価しないようでは考察やまとめといわない。その時々に必要な記述をきちんと指導し、理解させなければノートに書くことはできないし、そのことに対する評価もできない。そして、常に記録(自己内検証・・・評価)を伴いながら進んでいくことにから、より確かな歩みにもなる。
学習指導要領の6年の物質とエネルギーの中に「物を燃やし,物や空気の変化を調べ,燃焼の仕組みについての考えをもつようにする。」という目標がある。今の生活の中では、ものが燃えるということそのものを見る機会は少なくなっている。電化住宅になって台所からも火は消え、エアコンになって寒くても火を見ることもなく、風呂に入るにいたってはお湯が出てくる。唯一学校のストーブがガスストーブでみるが、炎を上げる瞬間に目を留めることはない。だから燃えるという時をまず見つめさせる必要がある。そのためには、ロウソクの火がもっとも適当である。もちろんマッチを使って火をおこす。もはや火に触れてみることは、児童にとって新しいことなのだ。当たり前ではない。だからこそ、出会いとして炎を描くときも児童の目も輝いている。自分の目を通して肌をとおして、認知した情報をノートという紙に出力したときに気づきが生まれる。また、頭の中で意識していたものが具現化してくる。逆に意識の中ではわかったつもり、見えていたつもりが、実はよく観ていなくてわからなかったり、知らなかったりということがよくある。だからこそ、自分が見て気がついたり、知らなかったり、確かめたことをノートに言葉で記すのだ。そして、そこに自分自身の有りのままの姿が現れる。有りのままの自分を再度見たとき、そこに客観が生まれる。客観的な思考基づいて事象を見直すのが評価だ。自分のことだから一生懸命になる。次にやるべきことも見えてくる。無知の知を知るという行為は、連続している。知るためには、言葉にしなければ伝わらない、残らない。だからどんな出会いも、どんな場面も学習において言葉で記述することは重要である。しかもそれは感想ではない、自分の内なる思いや願いや考えを言葉にするという作業が習慣化されなければならない。そして作られるノートは、本人の思考の流れを表している。自らが出会った事象を記録するだけのノートではなく、自らの思考をまとめるため、自らの思いをつづり、意識を言葉に変えることができるノートを児童自身がつづることができるとき、そこに評価と指導が一体化した授業が存在するものだと考える。
| 教育 | 10:17 | - | -
食育についての考察
グリコ
「食育」という漢字を見ると、「人を良くして育む」と読むことができます。
食という言葉にそんな意味があったなんて、いまさらながら驚きですが、確かに食と言う瞬間は人の心を豊かにし、人の体をつくり、人の関係(社会性)を創ります。そういう観点から見ると、食育という言葉は、教育という言葉をより具現化した言葉かもしれません。

人の心を豊かにするというのは、だれでも食事の時ににこにこして食べているから容易に理解できるかと思いますが、家庭での団欒が人を育てるということですね。団欒の中に食事に対する躾があり、さまざまな情報交換があったり、家族の中での思い願いを互いに聞きあったり、食べ物に関する感謝(いただきますを誰に言うのか?)があったり、家庭生活の役割を自覚して実践するとか家族の協力、そして体を作るための食べ物を洗濯する力といったありとあらゆる要素が含まれています。
本当であれば昔の日本の家庭では、わざわざ取り上げないでも家庭でそういう子どもが生きるため社会生活をするための力を養っていけたのですが、現代の何事も早さを重んじる生活(ライフスタイル)では、どんどん省かれて団欒の場が、餌を食う場所(ちょっと言葉がきたなくってすみません)とレベルが下がってきています。
だからこそ、日本のライフスタイルのいいところだった(過去形なのが残念だけど・・・)家庭生活の中の団欒、かぞくいっしょの食事の時間を復活させて、その意義をもう一度見直そうというのがほったんだと思います。それを何とかしようとしているので、教育や専門機関の力で何とかしていきたいと思っているのでしょう。
確かにもう一度「食」というものを見直してみると教育のわすれていた大切な要素がいっぱいあります。そういう意味でも、いままで培ってきたことを再考し意味づけ、実践に生かすということはとっても意義深いことですね。

さて、食育の復活ということを最初に言い始めた(厳密に定義した)食育調査会では、以下のようなことが言われています。

二十一世紀におけるわが国の発展のためには、子ども達が健全な心と体を培い、未来や国際社会に向かって羽ばたくことができるようにしていくことや、全ての人にとっての「健康寿命」をのばすことが大切です。
「人間力」あふれる日本人の基本は「食」にあり、「食育」はその重要な柱として位置づけられるべきものです。 一方、社会や経済の情勢が目まぐるしく変化する中で、忙しい日々を送っている私達は、毎日の「食」の大切さを忘れがちです。
また、自然の恵みのもとに先人から育まれてきた地域色・文化の香りあふれる豊かな日本の「食」は、今、見つめ直さないと、失われる危機に立っています。食の安全への国民の信頼が大きく揺らいだ後、スローライフ、スローフードに関心が高まっている今日、私たちは大事なものに気がつきはじめました。
「食育」は、国民の心と身体の健康を増進し、豊かな人間性と健全な食生活を目指すものであり、消費者の「食」に対する考え方を育て、その選択を手助けするとともに、「食卓から農場まで」顔の見える信頼関係を構築することによって、ひいては食料自給率の向上や環境と調和した持続的な食料生産にも貢献しようとするものです。
今こそ、国民一人一人が「食」について改めて意識を高め、「食」、「子育て」、「教育」等の専門家とともに、「食育」に関わる実践的な活動を「一大国民運動」として展開していくべきではないでしょうか。

( http://www.gotoda.com/weekly/photo/2003/06/shokuiku.doc より引用)

私なりに解釈をしてみると、従来日本人が考えていた「食」は体を作るものという考え方からさらに考えを進めて、「食」は心と体を作るもの という考え方と、「食」はライフスタイルをつくるもの という考え方の二つを冒頭に打ち出しているようです。

最初に述べた「心と体を作るということをここでは、「人間力」「人間力の向上」というキーワードで書いています。この言葉はたぶん、「生きる力」の次に来る言葉でしょうからチェックしておいたほうがいいですね。
ここでちょっと余談ですが、「人間力というと人間として、社会の中でよりよく生きようとする力」です。とさらって書いてあります。しかしこれじゃあ分からない。もともと企業で使われていた言葉のようですが、そのあたりから紐解いていくと・・・
これが「人間力」だ

 「人間力」とは、相手の心にうまく働きかける対人能力である。

 「人間力」とは、仕事がうまくいく人が持っている能力である。

 「人間力」のある人は、働いていて楽しいし、毎日の仕事にやりがいがある。

 「人間力」を持つ人は、相手の心をゆりうごかすことができる。

 「人間力」を持つ人は、相手との利害対立を見事にバランスさせることができる

 「人間力」のある人は、顧客や仕事相手を満足させ、信用を獲得できる。

 「人間力」の基礎は、自分と相手の「心」を意識することにある。

 「人間力」のある人は、「相手の気持ち」を自分の欲よりも優先できる。自分の欲に勝てるからだ。

 「人間力」の達人はいつも、自然に心を開き、リラックスして、相手をよく見ている。

 究極の「人間力」は、「自分の心を無にする」ことである。

いわゆる社会の中で生きるための生き方や自分の人生に対する生き方を言っていることが分かります。
寺家小学校の「人間力の育成」と言った研究の中も

     人間力育成の3ジャンル
  ☆文化生活の基礎  (教科の学習)
  ☆職業生活の基礎  (職業理解)
  ☆市民生活の基礎  (社会参加の経験)
   を身に付けるために組織立てられた、生活科や総合的な学習の時間を中心にした学習の機会と場全体です。「子供が、自主的か
   つ主体的に人間力を身に付ける世界」と言っていいでしょう。

として先ほど言ったことが理念としてのこされていることが分かります。
さらにそのような教育がこれまでなされてこなかったのですか?という問いには、
    従来の教育は、知識・理解が中心で、その学力さえあれば、子供は、将来、よい生活を送るだろうと短絡して考えました。従っ
   て、子供が自分のよさを見つけ、見つけた自分のよさを自分の現在や将来の文化生活、職業生活、市民生活と結びつけて自分
   をさがす(自分をつくる)面が大変弱かったのです。
    分かる喜びだけでなく、今やっている勉強が小学生なりに将来と結びつき、楽しみとなる学習を進めて欲しいと願っています。

といったことが、人間力育成のための必然性としてあげられているのでなるほどと思います。

ちょっと余談が過ぎましたが、話しを進めます。
「食育」というものの大切さの中に、日本の文化の継承と食の安全、そしてスローライフに代表されるようにライフスタイルをみなおすことの3点が特に重要であると書いてありますね。

文化の継承と食の安全とありますが、単に昔からある米を食べなさいとか言ったことではなくって、外国との貿易で安いものがどぉ~ん!と入ってきて実は日本の農業は大きな危機に瀕しています。そういう意味でも日本の昔からやってきた食糧生産を維持し、さらに自給自足できるようなものを増やしていくべきだという願いも入っています。そして地産地消 の言葉に代表されるように、食糧生産の向上と食の安全を進めるべきだという話につながっているのです。
では、地産地消は、学校教育の中でどのような意味をもっているかというと、
「地産地消」は、単に地域の食材を消費するだけではなく、「もの(食材)」をとおして「ひと(心)」がつながることが原点です。この「人と人のつながり」を原点として、食農教育や食育、食文化の伝承と活用、生産者の生きがいや消費者の安心・信頼、さらには、食を柱としたいきいきとしたむらづくり、まちづくりなど地域づくりへとつながっていきます。だからこそ、人間力向上の一端としてその言葉がクローズアップされてきたのです。
さらにここで大切なキーワードとしては、ライフスタイルを見直すということでしょう。殺伐とした現代に心に余裕をもって、物質的な豊かさから精神的な豊かさへの転換ということを言っているようです。じっくり自分自身を見据えて、ゆとりを持って未来をみつめる教育。それも混沌として先行きの見えない現代だからこそ培ってほしい力なのかも知れません。
| 教育 | 10:17 | - | -
鬼ヶ城窯の魅力
とは、本来料理や飲み物を入れてこそ意味をなす。眺める楽しみもあるが原点はやはり、美味しく食べるためのものである。それを鬼ヶ城窯の作品は思い出させてくれる。
 料理を美味しく見せるには、どんな器にのせればいいかご存知だろうか。
  それは、少し大きめの器にのせること。器と料理の調和をとるということが大切なのである。しかし、大きすぎてもいけない。大きいととかく重たいものであるが、鬼ヶ城窯の作品は持ったとき「おや!」っと思えるほど軽い。それは轆轤(ろくろ)の技術がしっかりしていてこそできる技である。だから使いやすいし、テーブルに置いても気にならない。 人が陶器に惹かれるのは、土の持つ温かみややさしさに惹かれるのだと思う。それだけならば安い型ものの既製品を買えばすむだけのことであるが、わざわざ手作りの少し値段が高い作品を求めるのはなぜであろうか。
鬼ヶ城窯の魅力

それは器を作る人が、使う人のことを思い願い研究を重ね作品をこの世に送り出しているからである。鬼ヶ城窯の作品も然り。まずもって掌にしとっと馴染む、そして指がすっと入って、そのさわり心地は気持ちよいほどである。コーヒーカップにしても、指を通すと妙に安定する。それは、人が指を通したときに持つ微妙な傾きまでも作品の中に取り入れているからである。手の一部になったような錯覚さえ思える。もはやユニバーサルデザインの極みを奏でている。そんな触り心地、使い心地をもった器なのである。
  手の指5本でぐっと器を持つ。
そのときに指と指の間にしっくりとくる感触。思わず「にやっ」とわらってしまう自分に、一人思う自分だけの時間と楽しみ。
 碗のふちに口を持っていって、ご飯をかき込みたくなる、そんな口当たり。
 食べる前に器のふちに触れるが、その口当たりも料理の立派な味である。そして持ったときの感触さえも味の一部となる。飽きのこない白をベースとした器も実は食材との調和・人との調和・自然との調和から生まれたように感じる鬼ヶ城窯の作品なのである。
| いきる | 10:16 | - | -
教育の不易と流行
大航海時代
なぜ各国で義務教育をするのかというと、その国にふさわしい人材と作るという大きな目標があるのです。
では、ふさわしい人材はというとそこに本質的な目的として「教育の不易と流行」というのがあります。
すなわち不易(日本人としての伝統的な文化の継承)流行(新しい時代に自ら適応する人間を形成する)を教育の力によって人材育成するというのが目的です。それがなければ、税金で知らない多くの子供を教育する必要はないでしょう。端的にいえば日本人を作るのが目的です。だから英語学習をしても結局日本人として国際社会に通用する日本人を作らなければなんの意味もないのです。また伝統文化だけ重んじていても、貿易や異文化の流入で負けない適応力のある明日の日本人を作らないと国は滅びてしまうのです。だから柔軟な子供のときから、日本人としての教育をなされているわけです。韓国の方が日本にきてなぜ日本の学校にいかないというと、自国の文化を守るため朝鮮学校のようなところにいくのです。単一民族で、いつも回りに日本人しかいない日本国民にはわかりにくいことですが、ヨーロッパなど他民族が入り乱れているところは学校こそ文化の継承する場所として重要な位置を占めています。だから民族的な危機感をもっている国は学校に保護者がたくさんかかわっていますよ。

ですから、不易というときに日本人とは何か?っていうことを問われているのと同じで、日本人としてのよさを考え子供たちに伝える必要があり、流行とは新しい学力観とか生きる力に示されるように時代に適応する力をどのようにみにつけさせるのかっていうことを言う必要があると思います。
さて、流行はたくさん書いてきたけど、不易に当たるところはなんでしょうか?
| 教育 | 10:14 | - | -
人間社会における塩梅の大切さ
うめぼし
 塩梅という言葉がある。これは、昔料理の味を決めるのに塩加減と酢の加減でおいしさがきまるということを表しているが、転じて人間関係における配慮という意味にも転化して使われるようになったそうだ。
 人間関係の中で塩梅というものが重要であることは言うまでもない。しかしこの塩梅というものが、昨今大変難しく感じてくる。というのは、人が多様化して一義的な塩梅では成り立たなくなってきたからだ。
 そこで、本来の塩梅という面から考えを進めてみると、名人の料理とはたゆまぬ努力と経験を積み重ね、ベーシックだけどオリジナリティを持った上品さを持っているものだと思う。さらに、常に均一の味が出せることが絶対条件であることがプロの仕事である。名人はその上にゲストの様子を見て、本当にその人が好む味に微調整する。人間は日々変化する。だからこそ、そのときそのときに合ったように微調整を繰り返すのである。そうやって考えると塩梅というのは、本当に奥深く難しい。ありのままをやっても足りないし、常にオリジナリティを求めないといけないし、さらにその場その場で微調整しなければならない。それを全部ひっくるめて調和させてこそ、名人の塩梅というのであろう。
 その塩梅も食べてくれる人がいて、本物になる。ということは、塩梅というのは一方的ではなく、提供する人も提供される人も共に参加して本当の塩梅が生まれるということになる。とすると、味に注文をしてくるゲストは、本来大切な塩梅のひとつなのかもしれない。
 人間社会にもそれと同じことがいえる。人間関係の中で塩梅をはかり、施すことは本当に難しい。結局塩梅に答えは無いのだ。それは人が経験から掴んで施し、失敗を繰り返しながら学ぶしかないのかもしれない。そういう寛容な時間と態度と真摯な態度が、真の塩梅を生み出すのだと思う。

投稿者 nemo : 午前 1:29 | ミーム
| ミーム | 10:13 | - | -
生きている記憶
脳
 人間の記憶というものは、長期記憶と短期記憶というものがあると以前何かの本で読んだが、現在短期記憶と言わないで、作業記憶というそうだ。ちょっと見て覚える力(作業記憶)について、学習場面での指示や発問に対して思いをめぐらせてきたが、少しのヒントになった。作業記憶というのは、限られた量の作業バッファ(覚えるだけの領域)を持っていて、言葉も行動も同じようにその領域に入るそうだ。だから、「机の上のボールを取る。」という指示の中にすでに3つの要素が含まれている。言語だけなら大人で最大7つくらいだそうだが、行動を伴うと大人で3~4つくらいしか覚えられないそうだ。ましてや子どもは2つ~3つ。分かりやすいように丁寧に言ったつもりが、途中で記憶されてないという本末転倒はこうやって起こるものなんだなと思った。
 逆に長期記憶というのは、意味記憶というのだそうだ。物事の関連付けを覚えるのであり、つまりリンク構造を記憶するということになる。イメージや言語で捉えた感覚をリンク(意味づけ)するので、実質無限に近い記憶バッファを持つ。人間はこの作業記憶と上手に使い、意味記憶を誘発することで「わかる」のだそうだ。といっても、インターネットの世界と同じようにリンクは時間がたつと途切れる。常に更新しないものは劣化していくというのは、記憶も生きている証なのだろう。
| ミーム | 10:11 | - | -