
1 はじめに
近年、特に子どもが持つ特質である「好奇心に任せてさまざまな自然事象に積極的に関わる」環境も時間も薄れてきた。しかし、教師は授業という限られた時間で、単に出会いを演出するだけではなく、授業でどう関わらせるかということが必要になってきている。
さらに、その関わりから問題意識を高め、解決する学びへと児童一人ひとりをいざない、更なる知的好奇心を醸成することが大切になってくる。
以上のことを解決するために実践してきたことを自己の考えとともに述べていきたい。
2 自然事象への関わり
自然事象との関わりと言えば、すぐに観察・実験という体験が大切だと言われるが、主体的に関わらなければいくら体験しても児童にとってバーチャルでしかない。目に映るのではなく観る、手に当たるのではなく触れるといった心的な行動が伴わなければ実感は得られないし、感情も思考も揺り動かされない。
学習指導要領の5年、生物とその環境の中に「魚を育てたり人の発生についての資料を活用したりして,卵の変化の様子を調べ,動物の発生や成長についての考えをもつようにする。」という目標がある。
選択教材ではあるが、特に魚ではメダカを使って学習する。発生や成長まで観察し考えを持つとなれば、生き物の一生に責任を持って関わらなければならない。しかし、住宅事情から自分で魚を飼った経験を持っている児童は少ないと予想された。そこで、今年度私は理科専科をしているので、まずは5月の始めに理科室に大きな水槽を据えてメダカをオス・メス合わせて16匹飼うことにした。小学校の児童は生き物があると次第に目を向けて集まってくる。低学年などガラスに鼻を押し付けてじっと見ている。特に私が受け持っている5・6年生の児童は授業の度にメダカを見る機会も増え、また私が世話をしているのを興味深げに見ていた。6年生は昨年度理科の学習でメダカを育てた経験を語る。5年生はそれを聞き、世話をしてみたいという児童が少しずつ出始めた。でも、あくまで理科室のメダカは「先生が飼っているメダカ」である。たびたび来る児童を介して、メダカの飼育や知識を交換したり、毎日の変化の様子を話し合ったりするようになった。このような日が一週間続いた時、ついに「自分たちも教室でメダカを飼ってみたい。」という願いが生まれた。「せっかくだから先生のメダカをすこし出張させてあげるけど、大切な先生のメダカなんだから一学期の終わりにはちゃんと返してね。」というと、「生まれたメダカは、私たちのものにしてもいいですよね。」と子どもたち。ちゃっかりしている。こうやって5年生の子どもたちのメダカの飼育は始まった。
この5年生の児童とメダカとの関わりからもわかるように、さまざまな自然事象との関わりで何が大切かというと「関わるべき場(環境・・・空間や時間も含む)」と「本人の事象に対する理解(先行経験、知識、好奇心)」、そして「教師(友達・親などの他人)の一言(行動)」である。いきなりメダカを持って行っても一部の動物好きの子しか世話をしないであろう。しかし、その前に興味関心を高めるための場と知識を与え、教師の言葉という刺激を受けて、関わり方がより深いものに変わる。事実、その後の理科室の先生のメダカでの観察や実験では、どの子も宝物のようにメダカを扱うだけでなく、メダカが生きていくためにはどのようにしなければならないかということを考えながら扱うことができていた。
3 指導と評価の一体化した学びへ
先ほどの関わりからすでに授業を始める前に児童の意識の中に「メダカを飼うためにはどうしたらいいか」「メダカに卵を産ませて増やしたい」「どれがオスとメスか、その違いは?」といった課題意識や目的・目標が生まれてきている。では、それを学びにしていくためにはどうしたらいいだろうか。
つねづね小学校6年が終わるまでに自らの力で自然に関わり、研究し、自らが納得できる結論が出せるようになってほしいと考えていた。そのための論理的思考や判断、観察力、知識、実験の手法などはある程度教えないとできないし、なによりそのまとめ方もルールに則ってやらないと人には伝わらないことも理解させる必要がある。さらに自然事象と関わり、問題意識を持ち、解決するためには、言語としての記述とそれに伴う検証(評価)が不可欠である。それなしに、理解したということもできない。物事を理解するということは、自らがわかるスケールに要約した言葉に言い直し、それに対する検証(評価)が加わったときに初めて理解したといえるのだと思う。
そのためには、その日その日に出会った事象に対する記述(評価)が大切になる。もちろん記述するものはノート(紙)だ。
理科の学習と自由研究の手法はほとんど同じものである。動機(導入)、目的(課題設定)、方法(実験・観察)、結果(記録)、考察(まとめ・話し合い)といった手順の繰り返しである。児童の思い願いからスタートするといっても記述の方法や調べていく手順に変わりはない。だからこそ、ノートのとり方が重要になり、その時々に必要な記録方法や内容が変わってくる。たとえば実験の結果を記録しないといけないのに感想を書いてはおかしい。事実に基づいて、実験の確からしさと結果の記入方法を自己の知識や方法を学びながら検証し、それを記述するべきである。逆に考察の場面では、ノートに結果だけ書いて、目的を評価しないようでは考察やまとめといわない。その時々に必要な記述をきちんと指導し、理解させなければノートに書くことはできないし、そのことに対する評価もできない。そして、常に記録(自己内検証・・・評価)を伴いながら進んでいくことにから、より確かな歩みにもなる。
学習指導要領の6年の物質とエネルギーの中に「物を燃やし,物や空気の変化を調べ,燃焼の仕組みについての考えをもつようにする。」という目標がある。今の生活の中では、ものが燃えるということそのものを見る機会は少なくなっている。電化住宅になって台所からも火は消え、エアコンになって寒くても火を見ることもなく、風呂に入るにいたってはお湯が出てくる。唯一学校のストーブがガスストーブでみるが、炎を上げる瞬間に目を留めることはない。だから燃えるという時をまず見つめさせる必要がある。そのためには、ロウソクの火がもっとも適当である。もちろんマッチを使って火をおこす。もはや火に触れてみることは、児童にとって新しいことなのだ。当たり前ではない。だからこそ、出会いとして炎を描くときも児童の目も輝いている。自分の目を通して肌をとおして、認知した情報をノートという紙に出力したときに気づきが生まれる。また、頭の中で意識していたものが具現化してくる。逆に意識の中ではわかったつもり、見えていたつもりが、実はよく観ていなくてわからなかったり、知らなかったりということがよくある。だからこそ、自分が見て気がついたり、知らなかったり、確かめたことをノートに言葉で記すのだ。そして、そこに自分自身の有りのままの姿が現れる。有りのままの自分を再度見たとき、そこに客観が生まれる。客観的な思考基づいて事象を見直すのが評価だ。自分のことだから一生懸命になる。次にやるべきことも見えてくる。無知の知を知るという行為は、連続している。知るためには、言葉にしなければ伝わらない、残らない。だからどんな出会いも、どんな場面も学習において言葉で記述することは重要である。しかもそれは感想ではない、自分の内なる思いや願いや考えを言葉にするという作業が習慣化されなければならない。そして作られるノートは、本人の思考の流れを表している。自らが出会った事象を記録するだけのノートではなく、自らの思考をまとめるため、自らの思いをつづり、意識を言葉に変えることができるノートを児童自身がつづることができるとき、そこに評価と指導が一体化した授業が存在するものだと考える。